今日12月18日は親父の誕生日でした。
91回目となる予定でしたが、本年の8月28日に逝去しました。
というわけで、今回と次回の2回は、親父の人生を振り返ってみたいと思います。
少し暗い題材ですので、無理にお付き合いしないでくださいね。
親父の名は信義(のぶよし) 昭和9年の生まれです。
名古屋市の下町で、小さな運送会社を営む家の5人兄妹の次男として育ちました。
太平洋戦争前は景気が良く、相応の生活だったようです。
しかし戦争が始まると、兄と共に知多半島に疎開したのです。
将来の兵隊を見越して男子だけの疎開です。
昭和20年になると空襲がひどく、知多半島から一宮市へ疎開先を変え、その移動中に名古屋市内のデパートの窓がすべて空襲で割れて、街が燃え尽きてしまったのをみて、子ども心にとても怖かったそうです。
11歳で終戦を迎え、あと5年戦争が長引いたら戦地に赴いていたことでしょう。
家業の運送業は戦争ですべて台無しになり、貧しい生活になったそうです。
栄養が悪く、戦中はサツマイモばかり食べてたそうで、私の作ったサツマイモをあまり喜ばなかったです。
おそらくビタミン不足からか、生涯にわたって目が悪くなってしまいました。
止まっている車にぶつかったり、転んだり、そういえばキャッチボールもしたことが無く、目測を誤る、ほぼ片目が失明しているような状況でした。
勉強は好きで、学業成績は良かったといいます。
しかし勉強を続けることは叶わず、高校は商業科、高卒で名古屋市役所の水道局に勤めます。
働きながら名城大学の夜間部に通学します。法学部でした。
ちゃんと卒業証書もあります。19.2秒よりもっと長く、私も確認していますので詐称ではありません。
当時は終身雇用ですし、定年まで勤め上げましたので、どうして働きながら大学まで通ったのか、もう少し聞いておけば良かったです。
その後、31歳で結婚。33歳で長男、35歳で次男、すなわち私が生まれます。
幼少の頃から「大きくなったら弁護士さん」と言わされていましたね。昔はそういう親も多かったですが。
なので、私は自分の子どもに押し付ける言動は一切していません。
親父は名も無き、平凡な公務員でした。
いま、デジタルの世界になり、こうして記録に残せること、ありがたく思います。
次回は後編です。無理なくお付き合いください。
