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続 追悼 おやじ

親父の家庭状況が悪く、当初同居していた祖父の元より引っ越すことになりました。親父は40歳、私は5歳でした。三重県四日市市で終生を過ごすことになります。
いま思えば、毎日名古屋まで90分の通勤はたいへんだったでしょう。それでも9時に出勤、17時定時退社、お酒も飲むしタバコも。典型的な公務員です。
唯一の趣味が川柳。いちおう四日市市では上位3番目くらい(本人曰く2番)の腕前でした。

子どもの教育には熱心でした。私の兄は優等生でしたので少し自慢していたようです。
給料袋に手をつけず、そのまま母に渡していたの覚えています。

教育費を惜しまなかったのは感謝です。
滅多に遊んでくれたりしませんでしたが、毎年の家族旅行と、小学5年生の頃、名古屋城とテレビ塔に二人で出掛けたこと、私の将棋の大会に名古屋まで連れて行ってくれたこと、覚えています。

私の兄は文系で法学部に進学したときに、いちばん喜んだのが親父でした。

一方で、私が受験に苦労して失敗した時も何も言わずに見守ってくれ、ようやく医学部に合格したときに、すごく喜んでくれたのも親父でした。

私の卒業と同時に定年を迎え、その後は母親と海外旅行に行くのが楽しみで、おそらくヨーロッパばかり10回以上出掛けたでしょうか。

円高だったのは幸いでしたね。
私のところに初孫が生まれてからは、毎月のように田舎から会いにきました。
私とはほとんど遊んで無いのに、孫は可愛いのですね。

そういう姿はちょっと意外でした。

80代になっても元気で、まったく痴呆もなく、最後まで意識はしっかりしていました。
目が悪くなり、三重大学病院での手術も甲斐なく、最後の5年ほどはほとんど見えてなく行動が衰えたため、88歳で尿閉になり愛知県の国立高齢者医療センターに入院します。
ここで、なんと私の産業医科大学の後輩である泌尿器科医師に出会い、治療してもらい幸運にも尿症状が治ります。
2年間は高齢者住宅で過ごし、私も毎月いちどは仕事の合間にお見舞いに出かけ、一緒にテレビを流して、昔話しをする時間を取りました。

猛暑の中、おそらくは脱水に起因して脳梗塞を起こし、2週間で帰らぬ人となりました。最期を見届けることはできませんでした。

戦中戦後から高度成長期、バブル期、失われた10年、コロナを乗り越えて今年まで、昭和、平成、令和に及んだ長い人生が終わりました。

思いのほか長く90歳まで生きられたのは、ちょっと目測を誤りましたね。
ゆっくり休んでほしいと思います。

私はこれを書きながら涙が溢れてしまいました。

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